生きていると、「自分ばかり損してる!」と感じる瞬間って、けっこうありますよね。
私は結婚してからというもの、「なぜ私だけ…?」と数年間思い続けていました。
なぜ私だけ、茶碗洗いをさせられるの?
なぜ私だけ、一人で過ごす時間を確保できずに、いつも誰かの世話をしなきゃいけないの?
なぜ私だけ、自由に出かけることができないの?
「母親なんだから仕方がない、当然のことでしょう」と言われて、カチンときたこともありました。「だったら父親だって私と同じくらい不自由を味わうべきだ」と思ったりもしました。
そのあたり、今では克服していますが、当時はつらかったです。
また、「魂を成長させることで生きやすくなるよ」と推奨していますが、確かにその通りなのですが、途中でこんなことを思ったこともありました。
姑も旦那も、大した努力もしないで!
私はこんなに努力して、あなたたちに合わせて自分を変えて、みんなOKな環境にするために奮闘しているのに!
なんで私ばかりがこんなに苦労しなきゃならないの!?(゚Д゚;)
と。
頭では、「これは自分のため」と分かってはいるつもりです。でも、被害者意識がなかなか抜けなかったんですね。
例えば、姑との関係で悩んでいたときは、
嫁姑問題というからには、姑にも関係すること……。
だったら、姑だって少しくらい、一緒に解決する努力をしてくれても良いんじゃない!?
なのに私ばかり、なんでこんなに頑張ってるの!?
私の努力でこの嫁姑問題が解決したら、私のお手柄じゃん?
でも、姑は、何もしてないのに問題が解決しているようなものじゃない?
なんかズルくない……!?
という感情が生まれてきました。
私が姑に合わせてあげているのに、姑は何もしないで過ごしやすい環境を手に入れられるなんて、おかしい!
みたいな(笑)
現象を「問題」と捉えているのは自分
では、例えばこんな状況だったら、あなたはどうしますか?
あなたは横断歩道を渡ろうとしています。もう少しで赤になりそうな気配ですが、まだ青。
走れば間に合うと思い、猛ダッシュしました。
すると、大きなトラックがスピードを出したまま右折。
もう少しでトラックはあなたに接触!!!
幸いあなたの頭も体もしっかりしていて、身体は動きます。
さて、あなたはどうしますか?
トラックに引かれそうになった場合……もちろん、本当にひかれそうなときは、咄嗟に身体が動かないとは思います。
が、それにしても「トラックが悪いんだから、トラックが避けるべきでしょ!?」なんて言って、どーんと構えていますか?
もちろん、自分が避けなきゃ!と思いますよね?
一難去った後「バッカやろーっ!あぶねぇじゃねーか!」的な、ト〇ロに出てくるようなセリフを吐いたとしても、とりあえずはトラックを回避しますよね?
で、その場合、トラックの運転手さんへのイライラは少し残るかもしれませんが、とりあえずあなたの命は助かります。
実は、嫁姑問題もコレと同じなんです。
お姑さんはトラック。あなたは横断歩道を渡ろうとしている歩行者。
あなたは、青だと思って横断歩道を渡りますが、トラックを運転しているお姑さんも、右折する権利はあります。もちろん、交通ルールで言えば歩行者がいないときに限りますが。
とまぁ、交通ルールにはルールがあるので、第三者がそのルールに従ってどちらが悪かったのかを決めてくれます。が、嫁姑問題はそうはいきません。
第三者から見ると、どちらが悪いというのはないんですよね。その第三者の立場によって、良しあしが変わります。
さらにこの例えを続けると…
トラックの運転手であるお姑さんは、あなたがトラックに引かれそうになっていたことにすら気づいていません。
助手席に乗せた息子が仕事に遅れないように……、トラックに乗せた孫がもっと楽しめるように……そっちにばかり気を取られて、あなたの存在が目に入っていないかもしれません。
もしくは、気づいていたとしても「だって、車の方が青だったんだから、私は悪くないでしょ?むしろ、あなたがギリギリで横断歩道を渡ろうとしたのが悪いんじゃない」と思っているのかもしれません。
お姑さんのタイプによっていろいろですが、問題ととらえているのは、あくまで嫁であるあなたなのです。
お姑さんも、旦那さんも、問題とは思っていないかもしれません。
なんか理不尽な気がするかもしれませんが、変わりようのない事実なのです。あなたの見ている世界は、すべてあなたの中で処理されたものが映し出されています。あなたが「理不尽」と捉えれば理不尽な現実が、「すばらしい」と捉えれば素晴らしい現実が、目の前に現れます。
理不尽な世界から脱して、素晴らしい世界に住みたいのであれば、理不尽と感じようが、納得いかなかろうが、あなたが自分で変わるしかないのです。
「喜捨」という考え方
仏教用語に「喜捨(きしゃ)」というのがあります。
意味としては、相手に喜ばれることや見返りを期待するのではなく、その行為ができたという事実に感謝することが大切だ、と言う感じでしょうか。
せっかくやってあげたのに感謝されないことに不満を持つよりも、「相手の為を思って行動した」という事実だけであなたの徳は積まれています。その行為を相手がどう受け取るかに関わらず、「自分がやってあげたいことをやってあげた」それだけで完結なんですね。
逆に言うと、「お礼を言われないならやってあげたくない!」なんてことは、やる必要はありません。善意の押し付けになってしまいます。
あなたが姑に親切にするのも、自分の魂を成長させるのも、すべては自分自身のため。
その結果、姑も幸せになるのだったら、あなたの徳が2倍になったととらえても良いのではないでしょうか。
我慢しないことも必要
中には、どう考えても理不尽で、自分にとってメリットなんて一つもない!という場合もあるでしょう。
義実家で同居しているのに、家事も育児も、お金もすべて自分持ちで、なんの協力も得られない。家政婦扱いされるだけで、私はなんのためにここにいるんだろう…?
そんな疑問が湧くようだったら、別居を考えても良いでしょう。
「義両親は、大切な旦那を産み育ててくれた人たちだから…」なんて思って尽くせるのであれば、尽くしても良いでしょう。喜捨の考え方ですね。
でも、「メリットのない同居なんて意味がない!」と考えるのであれば、たとえ「嫁として間違えている」「冷たい人だ」と言われようとも、別居をしても良いのです。ただ、「嫁として間違えている」「冷たい人だ」と義実家に言われ続ける覚悟は必要かもしれません。義実家の人々の考え方を変えることはできないので。
我慢せず行動した結果、あなたにとって良い方向に行くか悪い方向に行くか、それは分かりません。でも、自分ばかり損をして割に合わないと感じるのであれば、思い切って損切りの行動をとってみるのも良いのではないでしょうか。
自分の人生のハンドルは、自分で握ろう!
自分ばかり損しているような気分になったときの対処法についてお話しました。
あなたの人生のハンドルは、あなたが握るものです。
義両親や旦那様に握られていると感じるから、不満が出るのです。自分でハンドルを握っていること、自分でしか握れないことが腑に落ちれば、「自分で舵を取っているのだから、この結果は受け入れるしかない」とすんなり受け入れることができるのではないでしょうか(*˘人˘*)
間違ってはいけないのは、諦めるのではなく、受け入れる、ということです。諦めたらそこで終わりですが、受け入れれば、そのあと良い方向に改善していくことができます。
自分の人生は自分で責任を持ちましょう!